初めて煙草を吸った日(1)
人生で初めて煙草を吸った。あの人の気持ちを知りたかったのだ。
…
3年半付き合って別れた彼は、15歳年上の人だった。
優しくて、なんでも私の言うことを聞いてくれた。
私の行きたいところに連れて行って、食べたいものを食べさせてくれた。
今思えば、私はなんてワガママを言って、困らせてしまったんだろうと思う。
私はあまりにもワガママで、彼はあまりにも優しかった。
彼の車に乗って、二人で色んなところに行った。
私が駅巡りや温泉に行くのが好きだったから、日曜日は必ず会って、助手席に座って遠出した。
車で色んな音楽をかけた。二人で歌いながら、少しだけ開けた窓から風が入ってくるのが心地よかった。
雨の日は、私が雨を止ませるおまじないをかけた。すると、驚異の晴れ女ぶりを発揮して、みるみる空が晴れていった。彼は驚いて喜んでくれた。
彼の好きな歌を覚えた。数え切れないほど、たくさんの場所を旅した。
夜のサービスエリアで、彼は私の髪にキスをしながら、キリンジの「エイリアン」を聴いていた。
就職試験の勉強で行き詰った時も、私が目指していた就職先で働く彼が教えてくれた。
毎日1往復のメールを3年半続けた。
就職試験の直前期には、時事問題とその回答を毎日送ってくれた。
意地っ張りで泣き虫ですぐに落ち込んでしまう私を、彼はいつも励ましてくれた。
「淡々と粛々と、サクッとフワッと軽やかに・・」
いつもこう言って笑ってくれた。彼に抱きしめられると元気になれた。
付き合って、2年目の私の誕生日の日。
誕生日を祝ってくれたデートの帰り道で彼は「来年の誕生日も今みたいに仲良しだったら、一緒に暮らそう」と言ってくれた。
翌年、彼のご両親に挨拶に行った。
・・・
彼は煙草を吸う人だった。
学生時代から15年以上吸っていて、いつも咳ばかりしていた。
どこもかしこも調子が悪そうだった。
そんな彼を見て、私はいつも心配で、悲しくて、「健康に悪いから煙草はやめなよ」と言っていた。
その度に彼は、「なかなかやめられないんだ」と苦笑いしていた。
ある時私は、喫煙年数から寿命を割り出すサイトを見つけて、彼のデータを入れて検索したことがあった。あまりにも短い寿命だと思った。
私は彼とできるだけ長く一緒にいたかった。
「煙草をやめるか、私と別れるかどっちかにして」と泣いて、彼を困らせたこともあった。
それくらい必死で、切実で、悲しかったのだ。
でも、そんな思い出も、過去になってしまった。
彼を振ったのは私の方だ。
私は社会人になり、希望の職場にも就職できた。
そんな時、これまでの人生を振り返って、自分はあまりにも他人に依存しすぎていたと感じた。
社会人になったのに、自分で決めて自分で行動したことがあまりない。
もっと自立しなければと強く感じていた。
それは、「今自立しなければ、これからも自分のことが嫌いな自分のままだ!」というような、私の人生史上でも稀に見る強い欲求だった。
海外(それもあまり日本人が行かないような国)に行きたい。一人暮らしを始めたい。
もっともっと自分の思いのままに生きたい。
そんな今後の人生プランを、私は意気揚々と彼に語った。
すると、彼は「ダメだ。現実的じゃない」と否定してきた。
まさかそんなことを言われるとは思わなかったから、私は驚いた。
同時に「なんで親でもないのに、この人に怒られなきゃいけないのか」という怒りが湧いてきた。
大好きな彼の横顔も、出会った頃からは年を取ってしまった。わかっていたことなのに。
15歳の年の差は大きいことくらい、わかっていた。
この頃から、徐々にすれ違っていったんだと思う。
彼はどんどん親のような態度を取る。私はイライラしていた。
そんなイライラが伝わったのか、彼も以前ほど話をしてくれなくなった。
そして、彼から「距離を置きたい」というメールが届いたのは、そう遠くはない7月の夜だった。
「1か月だけ連絡を取るのも会うのも控えて、自分たちの今後を見つめ直したい」
メールにはそう書いてあった。
私は想像もしていなかったことで、しばらく泣きじゃくって、ありったけの気持ちを込めて「あなたが大好きだ。かけがえのない人だ。これからも傍にいたい」という内容のメールを送った。
彼からの返信はすぐに来て、「少し時間を置くだけだから。また戻ってくるから大丈夫だよ。自分にとってもあなたはかけがえのない人だ」と書いてあった。
1か月の間、私も考えた。
でもその間、私に好きな人ができてしまった。今の彼だ。
彼は年下で、親のようなことは言わないし、無邪気で明るくて、一緒にいて楽しかった。前から良い子だなとは思っていた。初対面の時から意気投合していたから。
すぐに心を奪われてしまった。
まもなく彼から告白されて、私は「いいよ」と言ってしまった。
その日遅くに家に帰り、家族が寝静まった静かな部屋で、声を殺して泣いたのを今でも覚えている。
きのこ帝国の「夢みる頃をすぎても」を聴いていた。
あなたの横顔は年を取るし あげた花も枯れてしまうだろう
息継ぎが上手くなってきたから 苦しさは思い出せなくなるだろう
(中略)変わりゆく街並みをそっと あの頃の夜に塗り替えてみても
変わらない物などないと気付いてしまった 気付きたくなかった
約束の1か月後、久しぶりに彼に会った。こんなに会わなかったことはこれまでなかった。
自分の中で最高レベルにお洒落をして出かけた。
今日は別れ話をすると心に決めていた。綺麗な私を覚えていてほしかった。
久しぶりに会った彼は、疲れてくたびれているような印象だった。
会わなかった一か月分の話をした。以前のように笑顔で、楽しく、話題は尽きなかった。
そして、1時間くらい経ってから、私は別れ話を切り出した。
「あれから色々考えたんだけど、私たち別れた方が良いと思う」
彼は「そっか…」と言った。店を出た。
彼が車に乗って、少しだけ話をしたいと言うので、私はしぶしぶ助手席に座った。
彼は目に涙を溜めながら「これからも傍にいたい。かけがえのない大事な人だ。愛してる。結婚したいと考えていた」と言った。
私はそれを聞いて涙がこらえきれなくなった。彼は、私のあだなを呼びながら頭をなででくれた。そうだ。この人は優しい人だった。
でも別れなきゃいけないと思った。
「あなたには感謝しかないです。今までありがとう」
そう言って車から飛び出した。彼の「そんな…」という声が背後から聞こえてきた。
一度も振り返らなかった。
それから私は地下鉄に乗り、電車に乗り換え、海を見に行ったのだった。
雲一つない9月の青空だった。
(続)